<今回はエッセイ風>
マカオのカジノは圧倒的だ。
豪華な外装、眩い内装、射幸心をくすぐる絢爛さ。
世界最大のカジノの街を目にすることは、
面白い体験だった。
しかしそこには、
ストーリーが感じられなかった。
京都は対極にある。佇まいの街だ。
路地の奥、古い民家の屋根に鍾馗様がいる。
魔を祓うその小さな像は、
見知らぬ誰かが
「ここに暮らす人を守りたい」と願い、
受け継いできたものだ。
長屋に火事を持ち込まぬよう、
愛宕山のお札:火廼要慎(ひのようじん)を
台所や厨房に掲げる文化も同じだ。
祈りが形になり、
時間をかけて街に溶け込んでいる。
京都の町は準風満帆ではなかった。
応仁の乱の疲弊や
明治の東京遷都による衰退に見舞われた。
それでも人々は工夫しながら
都の文化を損なわないように適応してきた。
その痕跡が、石畳に、瓦に、お札に残っている。
マカオの街は資本で作れる。
しかし、鍾馗様による厄払いの習慣や
火廼要慎(ひのようじん)の心構えは
お金で買えない。
それは時間と祈りが重なった場所にしか
生まれないからだ。
人口が縮む日本に、
インバウンドの波が来ている。
ここで一つの問いが生まれる。
私たちはどんな人に来てほしいのか。
射幸心とラグジュアリーを求める、
ぎらついた旅行者か。
それとも歴史と静寂の中に
ストーリーを求める、知識人か。
いろいろな思いはあるだろうが、
後者のファンを増やすことが、
日本の長期的な磁力になる。
京都はそのモデル都市になりうる。
景観条例による開発制限は、
一見すると経済の足かせに見える。
しかし逆だ。
制限こそが希少性を生み、
希少性こそがストーリーを守る。
鍾馗様が今もそこにいられるのは、
誰かが「壊さない」と決めたからだ。
モラリストは
京都に2つの区分マンションを保有している。
景観条例が厳しいからこそ、
新しい供給は限られる。希少性が価値を守る。
キオクシアの株よりも、
ずっと持ち続ける価値があると考えている。
自分の生き方を考えるとき、いつも原風景に戻る。
小学生の頃、友人と河川敷で見た夕日。
近所のお祭りで、地域の人たちと協力した記憶。
祭りや冠婚葬祭は、単なる行事ではない。
困難が訪れたとき、
周りの人と協力して克服するための備えだ。
人と関わるきっかけを、
日常の中に仕込んでおく知恵だ。
京都の文化は、
鍾馗様も、火廼要慎の札も、
老舗の暖簾も
全ては人同士が関わり続けるために、
長い時間をかけて培われてきたものだ。
8がけ社会において、
おひとり様化は加速する。
京都の町は
人はヒトとの関わり方を学べる場だ。
縮む国の中で、ストーリーを持つ街は
本物の磁力を持ち続ける。
そしてその磁力の正体は、
資本でも技術でもなく、
人と人が積み重ねてきた時間そのものだ。


