「空気を読めよ!」という同調は
皆が快適に暮らすために
必要な社会性として求められる。
例えば、学校では、
教室で全員が席について、
静かに授業を聞くことは正しいとされる。
共同生活をする上でのマナーという前提で、
他者に迷惑や不快な思いをさせない配慮は
正しい部分もあるが、反面、
”はみだしモノを許さない”という
同調圧力にもつながる。
個性のない画一的な集団は、
生物学的には異常である。
「生物はなぜ死ぬのか?」の本の中に、
多様性について、以下の記述がある。
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生物は多様性を育み、死を繰り返して
適応できた生物のみが生き残った。
例えば、
①ウナギがわざわざ南海の深海で産卵して、
何千キロも旅をするのは、
捕食者のより少ない遠方まで徐々に
移動した結果で、
そのウナギたちの子孫だけが生き残った。
②鮭が大変な思いをして、生まれた川の
最上流まで遡上し、産卵するのは、
卵や稚魚を食べる捕食者が少ない
生まれた環境に戻った鮭のみが生き残り、
他の川に行ったり、海で産卵した鮭は
生き残れなかった。
我々が子孫たちに教えないといけないのは
せっかく有性生殖で作った遺伝的な多様性を
損なわない教育が大切である。
すなわち「多様性=個性」である。
日本の教育は、若者の個性に寛容ではない。
自由な発想で将来のビジョンを描ける社会。
予測不可能な未来では、
多様性が一番の強みとなる。
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と説く。
我々の多様性をなくすことは
生物学的には、画一化された危うい集団となる。
例えば、火事で同じ避難口から逃げた人々は、
煙に巻かれ、一酸化炭素中毒で全滅し、
その場に留まったり、自分なりの脱出ルート
を探したりした人が助かるケースが
例として挙げられる。
快適さを求める現代人は
流れからはみ出したりする他人について
つい「空気読めよ!」と
思ってしまうことがあるが、
しかし、その多様性こそが
予測できない未来では、強みになる。
多様な他者との繋がりにより、生きること。
その「共感力」を身に着けることができれば
われわれはもっと寛容になれるのではないか?