2025年5月25日日曜日

京都散策(五月編)


先日、京都⛩️に行ってきた。

本格的暑くなる前に

友人と散策しようと

今回は嵐山エリア☆


①鈴虫寺(華厳寺)

秋の虫である鈴虫を年中飼育しており、

いつでも鈴虫の音色が聞けることで

有名な嵐山にあるお寺

住職さんの為になる良い説法も聞け、

外国人も少ない落ち着いた

雰囲気を満喫した。









②竹林の小径 

嵐山まで来たので、竹林を散策。

日差しを竹が柔らかく遮り、

手入れのされた竹林と

竹🎋で作られた柵は美しい。








③天龍寺🕋

足利尊氏を開基。

後醍醐天皇の菩提 でもある。

有名な庭園は嵐山を借景に風光明媚

京都屈指の臨済宗の禅刹。






その後、

京福電鉄(路面電車)で

四条大宮まで戻り

錦市場周辺を散策&食べ歩き 。







夜ゴハンは「焼き野菜 五十家」 

以前、テレビ特集を観て

ココで食べるのを楽しみしていた。


京野菜🥬の味を活かした料理。

野菜の良さを出す素朴なメニュー

季節を変えてまた楽しみたい。














京都⛩️は身近な非日常散策。

次は龍安寺と西芳寺に行きたい。

 

2025年5月17日土曜日

物語(ストーリー)

 

前回、

日本には聖典がないと書いたが

自国を統制する不可欠な要素に

物語(ストーリー)がある。🤔


集団を統制するには

ストーリーが不可欠だ。


・キリスト教の福音⛪️

・独裁国家では指導者の武勇伝⚔️


トランプ大統領の

"Make America Great Again"も

ストーリーの一種だ。


日本でも戦前、”一億総玉砕”など、

天皇を中心としたストーリーが

国民全員に浸透していた。


戦後も高度経済成長期、

”日本列島改造論”など、

いまより良くなるというストーリーが

国民の結束力を高めた。


いまも日本ではストーリーが

語られないわけではないが、

国民大多数が信じるストーリーは

見当たらない。


ハラリ氏のNEXUS 情報の人類史 によると

以前は、新聞📰・ラジオ📻など限られた

媒体が中心で中央からの発信が主だった。

それ以外の発信媒体にチカラもなく、

SNSのような効果的な

伝達方法もなかった。


ストーリーが浸透しやすかったのは

情報伝達の手段が

統制されていたからだ。


現代ではストーリーを浸透させることは

できないだろうか???


浸透しにくいが全くないとは言い切れない。


例えば、国難といえる

有事(戦争🪖・大規模災害)の際、

素晴らしいストーリーならば

浸透するはずだ。


大規模な集団を維持するには

共同主観的現実が不可欠である。


国家にも個人にも、

ストーリーが欠かせない。




2025年5月9日金曜日

何をすればいいのサ?


GW前半は実家(仙台)帰省した。

(今回は✈️で単身帰省)


<友人との会話>

過労死防止を国が掲げて、

我々のようなサラリーマンも

若い頃に比べて、休みが増えた。

しかし増えた時間で

”じゃーなにをすればいいのサ?”

は教えてくれない。


ふむ🤔

この疑問は共感できる。


家族と大切な時間を

過ごすべきなどと言われているが、

人間関係の距離感はそれぞれだ。

家族で過ごすことだけが

最適解とは言い切れない。


単身赴任のような距離感が

ベストな場合もある。


自分は休日、読書📖や

NHK視聴📺をするのが好きだが、

まんがアプリをダラダラ観ることもある。


ヒトによっては、

”水は低きに流れる”ような

もっと自堕落なもの

例えば、酒🍶やギャンブル🎰。

(行き過ぎたヒトはオンラインカジノ)

が好きなヒトもいるだろう。


不摂生な時間が増えるなら、

仕事をしていた方が、むしろ、

”カラダもメンタルも健康”

と言う人も一定数いる。


個人の生活規律は曖昧なものだ。


中東のコーランや

キリスト教の聖書のような

他国にある聖典は

生活に指針(戒律)を設ける。

・過酷な環境下で生き延びる。

・隣人との争いを避けること

宗教を通して、民族が繁栄するために

節度ある生活を説いている。


一方、日本の仏教/神道は

行動規範よりも、冠婚葬祭での役割

という側面が大きいため、

コーランのような個人の行動規範が

国民全体にあるとは言えない。


その代わり、日本は災害が多いので

村社会単位での規律があり、

”よそ様に迷惑をかけない”といった

独自の風習が浸透している。


しかし、安易なカタチでの

個人主義が蔓延しつつある現状では

先の問い

”じゃーなにをすればよいのサ?”

に対して

宗教的な聖典がない為、

だらだらスマホで

クラゲ🪼のように彷徨ってしまう。


一つの解は

【スマホより運動時間を増やす】

である。

SNSや動画視聴を

ズルズル過ごしても

幸福感が高まらないことを

我々は気づいている。


メンタルに良い影響を与える

運動習慣(ウォーキング等)が

聖典のない日本では大切になってくる。



2025年5月2日金曜日

リアルと常時接続


スマホ時代は何が変わったか?🤔


アテンションエコノミーは

スマホ📱を通じて注意を分散され、

我々は薄いマルチタスクに

慣れてしまった。


何一つ集中していない希薄な状態


これはスマホを使ってないとき、

対面のやり取りの時さえも

希薄になっている。







 

LINEスタンプのような

反射的なコミュニケーションは

やりとりの中身よりも

繋がっていること自体が

大切となっている。


リアクションの単純化は

豊かな表現育成を遠ざけている。


また、常時接続で

失われたものは孤立と孤独だ。


自らの意思で孤立した状態を作り、

”自分自身の対話”は孤独の中で考える。


他者から切り離された

何かに集中している状態だ。


スグにスマホを触るのは

向き合うことを遠ざける。


自分自身との対話は

キラキラ✨したものではなく、

もやもや🥴が残る。

惨めな気持ち😣に

なることもあるだろう。


ただ何かから逃れるように

SNSや反射的コミュニケーションを

し続けても幸福感は高まらない。


結局、逃れられないし、

少しずつでもデジタルデトックスして

向き合う方が良さそうだ。


連休中に、

自分自身との対話をするのに

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スマホ時代の哲学